セラトー

特徴

セラトーは、どのように行動していいのかわからなくて、人の意見ばかり聞いている人、確信が持てない人のためのフラワーエッセンスです。

 

セラピーの対象となる基本的症状

自意識の発達が不十分。確信が持てない。一人前ではない。本能に頼ることができない。

 

身体的症状

確信がもてなかったり、途方に暮れている状態を伴う症状。またそのような精神状態によって引き起こされた身体的症状のすべて。

 

日常的に現れる症状

どのようにしたらいいのかわからない。即座に対応することができない。精神的な方向性の喪失。

 

セラトー症候群の起源と病像

セラトーの素質は、すべて正しく行いたいという願望、― 自分に価値があるという実感が弱まった場合だけですが―  権威に従う欲求から成り立っています。

セラトーの素質がバランスよく伸ばされると、この素質を強く持った人は自分に高い要求を課し、常に正しいことをしようと心がけるような人物になるでしょう。とても几帳面なので、仕事を進めるときも事細かに検討し、点検も怠りません。間違いや失敗はまずありませんし、たとえ仕事の上で失敗があっても責める人はいないでしょう。このタイプの人以上に、その仕事をうまくやり通せる人はいなかっただろうということを誰もが知っているからです。また、所属している会社の権力構造と摩擦を起こさずに適応できるタイプなので、社会的通年に背かず、しかも自分の本能を頼りに決断し、権力ある人々の期待にも応えようと心を配ります。もし、信心深いひとであれば、崇高なるスピリチュアルな価値観は重要な役割を果たしているでしょうし、自然に備わった敬虔さから、スピリチュアルな価値を高く評価するよう心掛けているかもしれません。こうしてこのタイプの人たちは、社会的に仕事場や上司や教育者からの好意を快く受け入れながらも、個人的には【神】や全世界のためにベストを尽くそうという思いを静かに抱いています。

セラトーの素質がバランスを崩してすべていくと、すべて正しく実行したいという思いが強くなりすぎて、まったく確信が持てなくなるような状態に移行していきます。そうなるとセラトー素質を持っている人は何をしたらいいのか皆目見当がつかなくなり、自分の意見や本能を信じられなくなってしまいます。助言をもらうために右往左往し、すべきことを探し回り、いろいろなことに手をつけますがどれも中途半端に終わるので、どんどん自信が失われていきます。このような状態に入ると、もはや精神的な方向性は失われています。

そして、内なる声や直感に従うこともなくなり、自分より強くて自信のある人に引っ張ってもらおうとするので一人前の大人に成熟する機会を自ら逃してしまうことになります。こうした状態が続けば、自分が未熟であるという感情を抱くと同時に人からの助言が自分には合わない間違ったものだということにも気づき始めるので、深い欲求不満に苛まれる結果となります。

 

セラトーの効果が発揮される領域

セラトーは自分に確信が持てない人のためのエッセンスで、内なる声を聞き取り、自分の意見に自信を持ち本当にやりたいことを自分のやりかたで行動するのを助けます。セラトーは問題を自分で解決しようとせず、すぐに助けを求める人(特に子供)が精神的に自立するのを支援します。セラトーを使うことで、自分にとっての【良いこと】と【悪いこと】の区別、【正しいこと】と【間違っていること】の区別をより深く理解できるようになるでしょう。

 

心理療法のための覚え書き

セラトーの素質を強く持っているひとの根本的動機は、常にいっぱんじじつ 正しく行動しようとするところにありますが、問題は何が正しいことなのかわかっていないという点にあります。自分が間違いだと思っていることを他の人は間違いだとは思わないことかもしれないということがわかっていないのです。このタイプの人たちは心の内に耳を傾け内なる声を頼りにする代わりに、為すべきことを人々に聞きまわり、間違った助言に従うたびにフラストレーションを感じます。

こうなるのも仕方のないことなのかもしれません。自分が正しいと思えることと(真実)は人に聞くことのできる一般事実とは違って正しい道へ導こうとします。

ところがバランスを崩したセラトー・タイプは内なる声を信頼しません。それは、このタイプが影響されやすく、人からの同意を必要とし、しかもすべてを正しく行おうとするからです。こうした生まれつきの素質は、確かに敵を作らないという利点もありますが、セラトー症候群に陥った倍委にはその人固有の基準が失われ、最終的に自分が何をすべきかまったくわからない状態にまで発展させてしまう可能性もあるわけです。

こうした弱点は、教育によってさらに強められます。教育を通じて子供たちは、目の前に繰り広げられる力関係に自分を合わせることを身につけるので、個性は更に削ぎ落されてしまいます。小さな子供のころからすでに、個人的な欲求よりも一般論を優先すること、一般的基準を自分のシステムに置き換えることを習います。おまけにキリスト教文化圏では、断念と性悪説が説かれ、人間が道徳的に不完全であると教えられるので、自分に対する深い信頼感を植え付けられてしまった人たちの多くは、勇気を出して自分がうれしいと感じることを見つけて実行することも、苦しみから抜け出すこともできなくなってしまいます。

確かに、社会基準にピッタリ合う精神構造をしている人もいて、そういう人たちは問題なく、社会に適応し、何をしなければならないのかを常に正確に把握しています。ところがセラトー・タイプは、周囲からの同意に依存しているにもかかわらず、はっきりとした個性があるので、自分の道を進んでいくうちに、一般的常識や期待されていることのあいだに葛藤が生じてきます。

この時点で確信はすでにぐらついていますが、本当にしたいことをするよう勇気づければ思い切って実行に移せる可能性は高いのです。ところが、こうしたケースは比較的まれで内なる声を遮断し、確信が持てないまま行き当たりばったりの(場合によっては最悪の)助言に従ってしまう人が多いでしょう。

基本的にセラトーの素質を持っている人は真理を追究する高尚なタイプなのです。ただ間違った場所で真理を探しているといえるのではないでしょうか。

つまり、自分自身の内面ではなく、他人の心の内で真理を探しているのです。自分の自然な感受性、感情、認識能力をもっと信頼する必要があり【良いこと】や【正しいこと】は相対的な概念でしかなく、そうした価値が自分に当てはまるときにだけ意味があるのだということを繰り返し明らかにしていく必要があるでしょう。

従って、私たちの人生の決定的な問いは、【すべてを正しく行うにはどうすればいいのか】あるいは、【絶対的な正しさとは何か】ではなく【自分にとって個人的に正しいと思えるものは何であり、自分はそれをどのように感じるのか】なのです。魂や身体が喜びや苦しみという形で私たちに送ってくるサインに注意深くなればなるほど、何が個人的に正しいことなのかをはっきり知ることなるでしょう。それ以上前進できなくなったときに適切な相手に頼るのであれば、助言を与える人が適任者かどうかも確かめずに求めてしまうのです。意識的にこうした習慣に抵抗し、失敗を覚悟してでも自主的に行動したほうが本人のためになるでしょう。自分で犯した間違いからは多くを学ぶことができるからです。自分で犯した間違いは、理性だけでなく、感情にも訴えてきますし、そして何よりも、自分の力で行動し、失敗も含めすべての経験に責任を負えば人格に力がつきます。これに対して、人の不適切な助言によって生じた事態を埋め合わせようとする行為からは、不満しか生まれません。

それはそうと、セラトー・タイプの規格には、必ずといっていいほど逆のタイプがいます。つまり、他人と人生に干渉するのが大好きな、札付きの助言者(バーべイン・あるいはバイン・タイプのひとたち)です。たとえ善意からごく自然に出てきた助言であっても、彼らの助言はセラトー・タイプのためにはなりません。自分の本能や洞察力の判断を頼りに行動できなくなるからです。

何をすべきか耐えず聞いて回るセラトー・タイプの人たちは、助言や援助が正当なものであったとしても、きっぱり断るべきでしょう。【人は障害あってこそ賢くなる】という格言には、それなりのいわれがあるのです。