チコリー

特徴

人からの関心を自分に引きつけようとして必死に尽くす人のためのフラワーエッセンスです。

 

セラピーの対象となる基本的症状

人の世話をやきすぎる。感情的な強いつながりを過度に求める。利己主義。激しい欲望。見返りを期待しての自己犠牲。感情による暴力的支配や威嚇。自分に対する強い同情。

 

身体的症状

愛されたいと異常なほどに激しい欲求や自己憐憫と平行して現れる症状、またはそうした精神状態によって引き起こされた身体的症状のすべて。

 

日常的に現れる症状

過保護。スーパーマザー。寄辺のない子供。過剰な執着心。自己中心的な嫉妬。侮辱されたという思い。自己憐憫。

 

チコリーの効果が発揮される領域

チコリーは本当の愛に気づくためのエッセンスです。病的な利己主義、感情的依存、感情による暴力的支配、脅迫、自己憐憫を緩和するので、人間関係やパートナーとの問題の改善に大変効果があります。愛情深く、しかも相手を縛らない人間関係を築けるようにするため、チコリーはカップル向けの貴重なエッセンスであり、神経症的な親子関係の改善のためにもよく使われます。

 

心理療法のための覚え書き

チコリーの素質を強くもっているひとは生まれながらにして愛情を強く求める傾向を持っています。人や動物(あるいは物)と共に幸福感を味わうことへの強い欲求と言っていいでしょう。彼らには、生まれつき強い人格的な力が備わっていて、常に積極的なので、気に入られたパートナーはこのタイプの人にすべて任せておけば、たいした役割を果たさなくても済むでしょう。気前よく愛を与え、発散し、それと同時に相手からの愛を感じ取れることができるという人間関係のなかでこそチコリー・タイプは幸福を感じることができます。

与えるという性格を持っているのにもかかわらず、私欲がないわけでも、何かを断念しているわけでもありません。そうではなく、自然な形でこのタイプは自己中心的なのです。音楽家が美しい音色を響かせようと楽器に愛情込めて弾くのと同じようにバランスをとりながら成長したチコリー・タイプは、自分が相手の中に呼び起こした喜びを、同時に自分の心の中で共鳴させよとし、その美しい響きを濁らせるようなことを極力回避していくでしょう。

 

かなり悪化したチコリー症候群の場合、このようにうまくことは進みません。表面的な利益に基づいて振る舞うようになり、心と心のあいだで共鳴する繊細な感情が失われてしまっているからです。このような症状において自由に解き放たれる気前よさは失われ、愛は商売に姿を変えてしまうため与えた物にはすべてお返しが要求されるでしょう。確かにこのタイプは愛する者たちを絶えず支援し、世話をし、援助し、それどころか救済までしようとするのですがその代わり高い見返り要求するようになるのです。愛された者たちは感謝を強制され、言いなりになるように迫られます。

このタイプの動機は愛がほしいという単純なものですが、愛が心にかかる大切な事柄であること、愛が手段や目的の介在しない生きる喜びからのみ生じるということが忘れられています。愛は働いて手に入れることもできなければ、力ずくで奪うこともできません。人との関係のなかで愛に巡りあうためには、まず自分自身の内面で、愛を目覚めさせる必要があるでしょう。自分自身の内側にあるものだけを、私たちは外の世界において(再び)見いだすことができるからです。外側に現れた「行為」や体験は「内なるあり方」や感情が形を変えて表現された結果に過ぎません。従って愛が、客観的な状況や表面的な条件に依存しているという考え方は、間違っていて、愛は現実的に魂の状態や感情の表現であり、内なるものが外に投影された者なのです。自分自身が愛で満たされているときだけ、外の世界でも愛を呼び起こすことができます。自分自身を愛する準備がなければ、私たちは愛に対して唖であり盲目です。

 

愛されていない人は自分自身も愛していませんし、また愛されていないと感じている人は様々な形で自分を取り巻いている愛を感じることができません。愛は生命そのものであり、偉大なる神的存在から自由に流れ出てくる恵みですが、愛は私たちのところにやってきては、現れたいところに現れたい形で姿を現します。しかしそれは、決して私たちが望んだときに望んだようにではないのです。私たちが、愛はこうでなければならない、愛はこのひと、この状況に関係があるに違いないといったり、また愛をイメージや条件や要求に結びつければ、愛は私たちから立ち去り、過ちを気づかせるために苦しみに姿を変え、もう一度私たちのもとへ戻ってくることになるでしょう。

チコリー症候群の人は善意によって愛を稼ぎ、感情的威嚇によって強引に愛を手に入れる人と特徴づけることがことができるかもしれません。それがうまくいかないと、同情や自己憐憫を手段にして相手を支配したり、すぐに嘆き悲しみ、自分ではどうすることもできないと訴えてみたりするでしょう。あるいは献身的に振る舞ってみたり、脅迫したり侮辱されたと思い、すぐに機嫌を悪くしたり、嫉妬するといった態度にでるかもしれません。

 

このような症状を自分の中に見つけたら(どんなひとも”チコリーの血”が多少流れているので)私たちは注意深く自分を見つめ直し、内面のどこかで逸脱がある証拠として、この症状を受け止める必要があるでしょう。鏡を覗き込むだけでいいのです。愛する人たちは私たちの内面の姿を映し出す鏡であり、彼らが私たちの過ちも映してくれるからです。人々が私たちのところへやって来て、やりたいことをし、再び去って行くことができるときにだけ、私たちの愛は健全だということができるでしょう。

 

子供たちがまったく近寄らなくなったとこぼす親たちは、子供を非難する前に、まず自分たちに過ちがないかどうか探すべきでしょう。自分のことを適切に愛情豊かに扱ってくれる親を見捨てる子供はいないからです。親は愛に条件をつけ、非難や支配欲や愚痴によって、子供たちの人生をぶち壊します。どんな場合も親が、子供たちを家から追い出しているのです。感情による暴力的支配や、貪欲きわまりない形で金銭的な援助を要求する子供たちも、彼らがチコリータイプの親の元で育ったということを暗示しています。多くの場合、親の態度が変わるか、子供たちが親と接触がなくなって初めてそうした子供たちは症状から解放されるのです。